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人生後半の処世術について考えます

改めて「幸福」とは②

そして近代に入って、キリスト教の世界観から解放されて現れたのが功利主義です。その代表的な論者であるベンサムは、個人にとっての幸福とは快が得られ苦痛が欠如した状態であり(快楽説)、「最大多数の最大幸福」の実現を社会政策の指針としました。

それまでの幸福の捉え方に比べて積極的で魅力的で大変わかりやすい主張ですが、よくよく考えると無理があります。というのは、われわれは生理的に快楽を感じなくても、いや、生理的には苦痛であっても、幸福を感じることがあります。たとえば、病気でひどい苦痛を感じていても、愛する家族に囲まれている時、価値があると思う仕事に打ち込んでいる時、大きな目標を達成した時などには幸福に満たされるものです。

だから、快楽というよりも、欲求が満たされた時を幸福としたほうが適切なのではないかという主張(欲求充足説)がなされるようになりました。ひとは、生理的な快楽ではなく、みずからの欲求によって動かされるのだ、というわけです。

しかし、この主張にも無理があります。たとえば、どのような欲求でも、満たされたらずっと幸福でいられるでしょうか?人の倫(みち)に外れるようなことをして願いを叶えても良心の呵責で苦しくなってしまうのは、なぜでしょうか?あるいは、欲していなくても、偶然与えられたことで幸福になることはないでしょうか?僥倖(ぎょうこう、思いがけない幸運)という言葉もあります。

そこで主張されたのが、幸福は主観的な心の状態だけではなく、幸福を感じるにはもっと客観的な条件を満たすことが必要だとする客観的リスト説です。どんな条件かというと、動物にはない人間の本性にもとづくもので、「生命」「健康」「知識」「愛情」「財産」「名誉」「人間関係」「道徳」などが挙げられます。

幸福は、各人の欲求のみにしたがうバラバラなものではなく、各人の欲求から独立した共通の条件があるという主張は、実践的で有意義だと思いますが、なぜそれがリストに加えられるのかは明確に説明されていません。