その後、消火器の販売や不動産会社などを転々とし、1973年(21歳)のときに商品先物取引の会社に就職します。そこで彼は高い営業成績を上げるのですが、「物を作って売ってもいくらにもならないけど、相場なら莫大なカネが動く」「カネを儲けるには右から左に動かすのが一番賢いやり方だ」と思い込んだのかもしれません。
彼は「事業はマネーゲームだ・・・その意味では相場が一番で、その次がマルチ、ペーパー商法だ・・・商売に道徳は必要ない」と後に語っていたようです。事業は博打だと考えていたのでしょう。
しかし、顧客の金を勝手に小豆相場につぎ込んで大穴を開けたことが発覚、解雇されます。その後も職業をめまぐるしく変えて、1976年(23歳)、大垣競輪場のトイレでスリを働いて逮捕されてしまいます。
彼は、取調べの際、次のように話したといいます。「俺は今まで何千万と競輪場に寄付している・・・競輪というのは基本的にゲームだ・・・スリとられる奴が悪い・・・スリとられるような人間は、自分の身を固めることについて弱い論理しか持っていなかったんだ」。
そして1977年(25歳)、名古屋で「豊田商事」の商号で(詐欺まがいの)私設の金地金の商品取引を始めます。社名は、トヨタ自動車の系列と錯覚させるためにつけられたものでした。
当時、金に対する国民の関心は高まっていて会社は成長しますが、規制が強化されたことから、1981年に金の現物まがい商法へと詐欺の手口を変えて、瞬く間に規模を全国に拡大していきました。
しかし、1985年に入ると、悪徳な商法が社会問題になり、6月18日、暴漢により刺殺されます。享年32歳でした。